2008年10月30日木曜日

お客様の側に立つ それがビジネスの起点

 10月も終わりとなり、気がつけば誕生日も過ぎ50才の大台を迎えてしまった。もう、この年齢になると誕生日のお祝いなどということもなく、いつも通りに朝を迎え、いつも通りに仕事をこなし、帰宅する。特に感慨はない。ささやかに一杯のワインを口元に運ぶ。目を閉じて少しの時間、自分と向き合う。走っいている自分がそこにいる。まだまだ未熟である。まだまだやりたいことも多い。もっと早くすすまなくてはという焦りもある。改めて、気合いを入れ直し、さらに加速しなければとささやかな決意をした。

 本日、ひとつの会社を友人とともに立ち上げた。株式会社ユーサイド。ユーとは“U=YOU/YOUR”を意味する。あなたの立場、お客様の立場で、最高のものをお届けしたいという思いから名付けた。

 自分たちの利潤を追求することを第一とせず、お客様が喜び、幸せになることの対価として、利益を上げ会社も成長する。そして、そこに働く一人ひとりがその喜びを共有する。そんな、理想をこの会社の名前に込めた。

 “U”には、もうふたつの意味がある。ユニーク(unique)であること。人のまねをするのではなく、自分たちのオリジナリティを発揮する。平凡なこととユニークなことのどちらかを選ばなければならないとすれば、迷わずUSIDE=ユニークな側を選びたい。
 ユ-スフル(useful)であることも大切だ。世の中にとって有益であり、お客様にとって役に立つものでなければ、意味がない。、

 さて、どんな仕事をここで始めるかについては、追々ご紹介してゆこうと思う。

2008年10月28日火曜日

「一歩下がる」スキル 

 上司が2週間ほど海外出張に出かけて帰ってきた。「そういえば、XXの件、やった?」と聞かれたので、「まだやっていません」と答えた。「言ったことしかやらないんだから、気が利かないよなぁ。」とお叱り言葉。

  ああよかった・・・と胸をなで下ろす。

 事実はやっている。正確に言えば、お客様の予定が変わり、プロジェクト存続の危機に直面したが、なんとか臨機応変に対応し、最悪の事態を免れた。少し予算を下回るが、ぎりぎりいけそうな状況にまでは、リカバリーした。とにかく、予算は達成できそうな状況である。

 しかし、彼の「やったこと」の基準がよく分からない。中途半端な答えをしたら、それこそ、どんな質問が帰ってくるか分からない。「じゃあどうやったの?あの人は、押さえたの?XXXには対処している。・・・」などといろいろ聞かれる。そこを見極めなくてはならない。
 「そこももちろんやっています」などと答えようものなら、「気が利くじゃないか。」とちょっと小馬鹿にした言葉が返ってくることは、想像に難くない。ますます、気が滅入る。そうでなくても、今日は虫の居所がちょっと悪いようだ。

 こんな時は、誰がなんと言おうと、文句を言いたい心境なのだろう。だから、こちらが正当性主張しても、それを聞き入れる心の受け皿がない。そんなときは、相手の不平不満のはけ口になることが、彼の心の平衡を保つための最善策といえる。これ以上、感情を高ぶらせないことだ。

 こんなとき、いろいろと説明すれば、間違えなく話題が広がる。性格や人生観などに話題が及び、「だからおまえはダメなんだよ」と徹底的にへこませてくれる。これ以上不愉快な思いはしたくない。

 そんなとっさの判断で、「やっていない」と答えてしまった。

 彼は、私は気が利かない、思慮の浅い人間というように感じているようだ。まあ、評価の基準というものは、人それぞれであるし、彼の目線で見ればそうなのだろうと思う。それを否定したところで、その目線が変わるわけでもない。それどころか、ヘタなことを言えば、ますます言葉に刺が帯びることは間違えない。とすれば、「そうなんだですよ。わたしは、バカなんです。」と認めてしまった方が、こちらへの被害も少ない。

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 あなたは、部下にこんな思いをさせてはいないだろうか。こんなことでは、部下の意欲を高め成長を促すことなどとうてい期待できない。むしろ、がんばろうという気持ちさえ、萎えさせてしまう。当然、組織力の強化など、まったく期待できないだろう。自分で自分の首を絞めているようなものだ。

 あなたの心のどこかに以下のような思いこみはないだろうか?

  • 自分がやらなければ、誰もやるはずがない。
  • 指示しなければ、何もやらない。結局は自分でやった方が早い。
  • 部下は自分より能力や判断力に劣る。たいした成果を期待しても無駄だ。

 自分が思うように人は動かないものである。自分が重要だと思っていても、相手にとっては、それほど優先順位は高くないかもしれない。自分の状況では、何も問題なく進められることでも、相手が同じ状況にあるという保証はない。
 約束を果たすか果たさないかが全てだと言い切ることもできる。しかし、その約束が数字の達成未達だけならば、わかりやすい。しかし、やり方や状況にどう対応したかなどのプロセスまで問われるならば、それぞれの価値観に大きく左右されてしまう。それぞれに自分は約束を果たしたと主張し、それぞれに相手は約束を果たしていないという。水掛け論になってしまう。

 あなたの判断や基準を押しつけ、その通りやりなさいと言うことは、ビジネス目標を達成するという点で言えば、必要なことでもある。しかし、そればかりでは、その人が自らの意志で、改善し成長しようとする意欲や機会を奪うことになる。

 感情というものをコントロールすることは、容易なことではない。しかし、部下を持つ以上、あなたにはそれを行う責任がある。コーチングやいろいろなマネージメント手法が、巷にはある。それを生かすも殺すも、自らの感情を御するスキルが前提となる。

 思いこみをぬぐい、一歩下がって全体を見渡すと、大きな流れや人の心のひだが見えて来るという。そうありたいと思う。

2008年10月27日月曜日

年甲斐もなく「一日二山」に挑戦

 10月26日(日)、パートナー女史と娘は、久米島マラソンに!19歳になる娘にとっては、初のフルマラソンへの挑戦。

 「負けてはいられない」と言うことで、私もこの日は「一日二山」に挑戦した。

 早朝6:00に我が家を出発。川崎インターから大井松田を出て、神奈川県山北町の「さくらの湯」に到着したのは7:30。今日は、ランニングの練習会で9:45集合となっていたが、みんなが来る前に一山走っておこうと早々に到着した。来てみると、中山さんが既に走り出す準備を整えていた。彼もまた、みんなが来る前に一山走っておこうとのこと・・・お馬鹿である。

 彼は万葉公園へ、私は大野山牧場を目指して出発した。この後の練習会でもう一山走ることを考えて抑え気味のスタート。しかし、走り出して温まってくると身体が軽くなる。いつの間にか、自己ベスト!なんて言葉がよぎる。そんなはやる気持ちを抑えながらも、気が付けば結構いいタイムで登り切った。標高200mから750mの山頂へ、およそ9Kmの一本調子の登り。50分はまあまあと言ったところ。
 
 山頂からから再び「さくらの湯」駐車場まで一気に駆け下りる。下りは恐怖心との戦い。重力に逆らわず全体重を足に預ける。どんどん加速がつく。平地では絶対に出せないスピードに、自分が自分ではないような快感を楽しむことができる。そんな快感に浸っているうちに駐車場に到着した。下り9Kmを30分。平均すれば、1kmを3分20秒で走ったことになる。フルマラソンに換算すれば2時間20分。レースが下りだけならなんといいだろうと思うのだが、世の中は、そんなに甘くはない。

 駐車場に到着すると、練習会参加者が集まりはじめていた。それぞれにレースに備えて目標を持ち、自分を鍛えること、チャレンジすることを楽しんでいる。

 この集団の半分以上は女性たち。みんなおしゃれにも抜かりがない。ばっちり決めている。
 高い向上心を持ち活き活きとしている彼女たち。独身女性も多い。このかっこよさに引いてしまう男達も少ないはないだろう。そんなすてきなオーラを感じるとともに、彼女たちに「ほどほどにね!」と云いたくなるのは、おじさんの余計なお節介であろうか。

 そんな集団と再び走り出す。次なる目標は、標高750mの万葉公園への13km。最初、緩やかな登りが続くが、ゴール手前4kmあたりから斜度10~15%の急勾配。そこを駆け上がるのだが、いつものように足が前に出ない。歩くほどのペースで何とか万葉公園に着くが、もう限界だ!しかし、再び13Kmを駆け下りなければならない。考えただけでもうんざりする。いつもとはまったく違う消耗感に、無謀なことをしてしまったと心から反省した。

 いつものような下りの軽快さはない。加速感がない。途中勾配が緩やかになると、地獄である。歩きたくなる。いつもなら、2時間10分ほどで往復できるコースも、この日は2時間30分を切ることができなかった。情けない。
 くたくたになった足を引きづりながら温泉でMy塩でざらざらした身体を洗い流す。後は、冷たいビール・・・と行きたいところだが、車なのでそういうわけにはゆかない。ランナーらしく豆乳でのどを潤し、楽しみはお預けとした。

 本日の走行距離、44Km。そこそこ走った。しかし、まだまだ修行が足りないようだ。秋の深まりを楽しみつつ、そんな課題を再確認する休日だった。

 そうそう、パートナー女史と娘は、久米島マラソン、無事完走。最高気温30度の中を最後まで走り抜いたようだ。おめでとう!

2008年10月23日木曜日

営業という仕事を楽しむためのノウハウ

 今日から、「ソリューション営業プロフェッショナル養成講座[管理者コース]」が始まる。

 この研修は、既に実施している標準コースを営業課長やリーダー向けに手直ししたもの。ソリューション営業とは何か、その営業活動プロセスとはどのようなもので、如何に実践すればいいのかという標準コースの内容に加え、ソリューション営業を組織として根付かせるためにはどうすればいいのか、また、組織として最大のパフォーマンスを引き出すためにはどのような取り組みを行うべきかといった管理者の立場で行うべき実践ノウハウも充実させている。
 加えて、部下を育てるための考え方や実践方法についても触れた。

 実は、この管理者コースは本日がはじめての開催。既にその内容については、標準コースや別の管理者むけセミナーで分割しては行っているので心配はしていない。心配なのは、時間配分である。伝えたいことが山ほど有る。標準コースでも唯一評価の低い「時間配分」。いままでのコメントを見ると内容が盛りだくさんで、もっと時間をかけてやってくださいとのご意見をよくいただく。
 しかし、営業は忙しい。ゆっくりと研修に時間を使う暇がない。そんな中、決心しておいでいただいたみなさんには、一期一会の想いで、全てをお伝えしたいと張り切ってしまう。今回の管理者コースもそんな気持ちで作った。また、「時間配分」で厳しいご評価を頂くかもしれないが、できるだけ要領よくお伝えするように心掛けるつもりだ。

 私が、この研修をはじめたきっかけは、IT営業のパラダイムが大きく変わりつつある中、その対応に苦しんでいる多くの営業達の姿を目の当たりにしてきたからだ。

 過去の栄光から抜けきれず「俺の若い頃はこうだった・・・」といいながら、精神論を振りかざす上司。「こんなところにいて何しているんだ!とにかくお客様のところを回ってこい!」と根性論だけで、部下を駆り立てる上司。そこには、知性の片鱗もない。

 経験から培われた知恵、人間としての成熟を否定するつもりはない。しかし、それだけでは、部下を活かし、組織としての営業力を高めることはできない。
 こんなことしか言えない上司は、この変化した今の営業環境に対して「どう対処していいか分からない」から、具体的なアドバイスや状況への適切な対応ができず、精神論や根性論でごまかすしか、自分のプライド守れないのではないかと疑ってしまう。

 IT営業にとって「商品ありきの営業スタイル」は、もう時代遅れだ。どの会社もCiscoを売り、サーバーは、IntelとWindowsServerかLinux。なにをもって、競合他社と差別化し、自らの優位をアピールすればいいのだろうか。

 今の時代は、「商品なしの営業スタイル」である。商品は、お客様が知っている。お客様の課題、そしてそこから導かれるお客様の真のニーズこそ、営業が提案すべき商品がある。お客様の課題を見つけ、ニーズを明らかにし、お客様と合意する。
 お客様個別のオーダーメイドの商品を仕立て上げるテーラーであり、組織を使って作り上げ、運営していくプロデューサーが、今の時代に求められる営業だ。私は、このような営業を「ソリューション営業」と云っている。

 決して精神論ではない。実務実践のノウハウであり、それを支えるエンジニアリングがある。それを伝えたいと思っていた。それがこの研修をはじめたきっかけだ。

 果たして、どこまでその理想に近づいたかは分からない。まだまだ未完成だ。それでも、少しでもその片鱗を伝えることができれば、営業は自分でどうすればいいのかわかり、もっと活き活きとし、営業を楽しめると思っている。

 楽しんでいる営業は、お客様からも信頼されるし、大きな仕事も任せられる。そのための実践ノウハウ、営業という仕事の定石を学んで頂きたい。そんな思いを込めて、これから出発します。

2008年10月15日水曜日

怒りには理由がある

 「あたまにくる」「冗談じゃないよ」「ゆるせない」「なにやってんだよ」「いいかげんにしろ」・・・私が、このような言葉を口にすることはまずない。そう思うこともあまりない。自分は感性が欠如しているのだろうかと考えてしまうこともあるが・・・しかし、できないものはできない。

 このような表現を感情豊かに平気で言える人を時にうらやましいと思うことがある。これもまたひとつの才能なのかなあとうらやましく思うこともある。

 怒りには、その人なりの理由がある。受け取る側が相手に合わせて、感情的に捉えてしまうと、相手の思いの本質が見えてこない。

 怒りの言葉には「絶対にその考えを変えるつもりはないぞ!」というような確信とでもいうか、信念とでも云うか、ものすごいエネルギーが、渦巻いている。このエネルギーの一部が「口」という小さな窓を通して、ちらりと見えただけである。氷山の頂上が見えているだけであって、その下には大きなエネルギーの塊が隠れていることを覚悟しなければならない。

 怒りに「論理的」に対抗しようとしても所詮勝ち目はない。論理とは言葉を整理するための手段であり、そのエネルギーに対抗できるものではない。多少なりとも、力のかけどころを分散する効果はあっても、「エネルギー不変の法則」を変えることはできない。

 では、こちらも「感情的な表現」を使って対抗すればいいのかというと、それも簡単なことではない。どうも怒りのエネルギーというのは、ぶつかり合うことで相殺されることはないようだ。原子核に中性子を打ち込むようなモノで、怒りに怒りのエネルギーをぶつけると核反応でもするかのように、さらにエネルギーの量が拡大し、世界の終末まで戦うぞと云うことになりかねない。

 私も怒りを感じないわけでもないのだが、それを言葉にすることにとても抵抗を感じる。そんな気持ちがあるので、ますます怒りを自分の中に封じ込めているのかもしれない。だから、相手が怒りを顕わにしているときも、努めて冷静に相手の言葉の裏側にある論理を読み取ろうとするのだが、相手にしてみれば、自分の気持ちが通じていないと見えるのだろう、「君はどう考えているんだ」などと突然振られることがよくある。

 怒りの言葉は、時にして論理的一貫性を欠く。というよりも、基本的なところの論理は一貫しているのだが、表現がワープするというか、煮詰まった表現の断片が、時間軸を無視して打ち出されることが多く、簡単には相手の論理をこちらで再構成できない。「何怒っているのだろう?」と直ぐには分からないこともしばしばだ。

 しかし、問われた以上は、自分の考えを伝えなくてはならない。だが相手の論理がまだ読み切れていない。自ずと的はずれなことも多く、結果として相手の怒りに油を注ぐことになる。

 営業という仕事をしていると、お客様の「怒り」に遭遇することはしばしばだ。さて、どう対処すればいいのだろうか。簡単なことではないが、次の3つの手順に従ってみるというのは如何だろう。

1.相手の気が済むまで、徹底的に話を聞く
 まずは、これしかないだろう。怒りの感情を持続させるには、相当のエネルギーを消費する。永遠に燃え続けることなどできない。時に耐え難い屈辱的な言葉を浴びせられることもある。それでも、なるほどと耳を傾ける。

 決して聞き流すのではなく、打ち出される言葉の断片の裏側にある、論理や法則を再構成すべく、脳みそを全開にする。
 「また、なんか怒ってるよ」と馬耳東風で聞き流していると時間はものすごくゆっくりと流れる。そんな応対をしていると自分が「無駄な時間を過ごしている」ことに怒りを感じてしまう。それを相手にぶつようものなら核爆発を起こしかねない。

 一方、相手の論理を理解しようとすると、知的好奇心が刺激されて、推理小説の謎を解くような興奮がわき上がってくる。そうこうしているうちに、「ユーレカ!」である。相手の怒りが大きければ大きいほど、こちらの喜びも大きい。気がつけば、あっという間に時間が過ぎている。

 相手に対する感謝の気持ちさえわき上がってくる。仲間になれたとでも云うか、相手の側に立てたことは営業として何よりの成果だ。

 「分かりました!こういうことだったんですね。あなたを理解することができました。ありがとうございます。」そんな言葉が自然と口をついて出てくれば、なんと幸せなことだろう。

2.相手と一緒に怒る
 相手の論理が読めたなら、それを受け入れることができる。なるほど頭にくる。おっしゃるとおりですと思えるのなら、その感性に素直に従い、相手に伝えることだ。怒っている相手が例え自分であったとしても、悪いものは悪いと思えるのなら、そう云えばいい。

 もし、その論理に問題があるとすれば、素直にあなたの考えを伝えてみるといいだろう。但し、冷静に、客観的に言葉を選びながら、通常の1.5倍時間をかけて、ゆっくりと話すことを心掛けよう。

3.時間を味方に付ける
 それでも、相手の怒りが収まらないのなら、あとは時間を仲間に引き入れるしかないだろう。なるほどなるほどとうなずき、相手への理解を示す。
 
 もうこれ以上言葉がない、あるいは、相手が精根尽き果てるまで、相手の怒りの言葉を聞き続ける。それしかない。

 このような状況においては、相手は圧倒的に不利である。なぜなら、単位時間当たりのエネルギー消費量は、相手がはるかに多いはずだ。こちらは余裕を持って、悠然と構えることができる。そして、ひたすら、相手の言葉の裏側にある状況を分析する。
 相手の立場、今置かれている状況、例えば、会社での軋轢、なぜ怒っているのか、その理由はどこにあるのか。もし、彼が何らかの要求をしているのなら、その要求が通らないとき、彼はどのような立場に置かれるのか、家族の目、会社での評価・・・いろいろと想像してみる。これはなかなか興味深い。こういうときこそ、普段見ることのできない心の内面を覗くことができる。お客様の立場に立つ、お客様を深く理解する絶好の機会だ。

 気がつけば、相当な時間が過ぎている。腹もすくし、他の仕事もしなければならない。一時の興奮状態は多少なりとも収まり、冷静さ、論的思考力が蘇る。この時を待って、あなたの考えを静かに、時間をかけて伝える。そして、次のステップを探るのが賢明だろう。

 「怒りには理由がある」。ただ理由もなく怒っているのではない。例えその理由があなたにとって直ぐには理解し得ないモノであっても必ず理由がある。怒りを恐怖や威圧として受け取るのではなく、なぜ?の気持ちで想像を巡らし、相手について考えてみる。

 「なんと、理不尽な!」「なんと自分勝手な!」「こちらのことなど何も考えていない。」などと先入観を持たないことだ。相手をより深く理解するきっかけを逸することになる。

 となればいいのだが・・・こんな冷静でいられるばずはない。

2008年10月9日木曜日

こんにゃくゼリー マスコミのネタ、利用する政治家

 「蒟蒻畑」が製造中止となった。メーカーの経営者、社員の方の心中を察するに、やりきれない思いがする。

 報道によれば、


とある。一見すれば、至極当然なことのようにも思うが、どうもマスコミの話題作りのネタであり、それを政治家が利用したに過ぎないのではないかとも思えてくる。

 こんなデータがある。

 


















 ここに上げた統計は、サンプル調査であって、食品窒息事故の一部を取り上げているに過ぎない。実数については明確ではないが、この報告の中に「食物による気道閉塞が原因で死亡する事例は、近年4000例を超え、年々増加傾向にある。」とある。

 こんにゃくゼリーは、「カップ入りゼリー」に含まれるのではないかと思うが、この統計を見る限り事故の原因として、もちやご飯がはるかに多い。お粥さえも窒息の原因となっている。こんにゃくゼリーが、もちやご飯に比べて消費される量は少ないだろうから、単純に数字を比べてどちらが危険だと判断するわけにはゆかない。しかし、それにしてもなぜ「もち」については、何のおとがめもなく「こんにゃくゼリー」だけをやり玉に挙げるのか。そこには、話題のネタとして取り上げたマスコミ、それを宣伝の材料とした政治家の思惑を勘ぐってしまう。

 「消費者行政」。現内閣の目玉でもある。それに如何に熱心に取り組んでいるかをアピールする絶好の材料が「こんにゃくゼリー」というわけだ。

 安全を喚起すべきことに異論はない。また、事故で尊い命を失われたご遺族に心より哀悼の意を表したいと思います。
 だからこそ、「こんにゃくゼリー」をひとつの例として、「食品による窒息事故には注意しましょう!」というべきであり、行政もそのための取り組みを進めるべきだと思う。しかし、大臣が特定メーカーの幹部を呼び出し改善を求める。しかもその様子をマスコミに報道させる。「自分は大臣としてしっかり仕事をしています。」とのパフォーマンス。まるで呼ばれた企業関係者は悪人扱いではないか。どうも話の本質がすり替わってしまったようだ。

 「警告する外袋のマークの拡大やミニカップ容器にも警告を表示するなどの再発防止策を求めていた。」とあるが、実際現物を手に取ってみたが、十分に大きな警告であり、これ以上大きくしたところで、注意喚起が強まるとも思えない。まさに強い立場を利用した「恫喝」とも受け取れる。

 ましてや、社民党が提出した「こんにゃくゼリーによる窒息死事故に関する緊急申し入れ」を見て開いた口がふさがらない。話題に乗り遅れまいとしたパフォーマンス。国民のためとの大義名分を掲げ、人の死、企業の苦労や経営者の思いを斟酌することなく自分たちの宣伝として利用する。その内容の現実感覚のなさにはあきれてしまう。

 このブログは、本来こんなことを書く場所ではないと心得ている。しかし、仕事柄いろいろな経営者と会う機会もあり、彼らの心中をどうしても考えてしまう。

 この会社もいろいろな苦難を乗り切り「蒟蒻畑」というヒット商品を生み出したのだろう。経営者の苦労が忍ばれる。そして、テレビCMや雑誌広告など人気が出て、ますます目立つようになる。それを叩けば、当然叩いた側の宣伝効果も大きい。利用された側は、たまったものではない。

 企業側にまったくの非がないかどうか。どこまで安全性について議論して、製品作りをしてきたのか。安全性へのリスクがあきらかになった早い段階で、勇気を持って公表し、注意を喚起すべきだったの声もある。お客様の側に立つ姿勢が単なる理念だけではなく、行動の規範として活かされていたのだろうか。これについては、想像の域を出ない。

 今回の事件は、会社の経営に携わるものとして大いに憤りを感じると共に、改めて自身の襟元をただす教訓とすべきではないだろうか。

 

2008年10月8日水曜日

ドイツパンの時間、山崎パンの時間 

 ベルリンの中心部、あのシロクマ「クヌート」のいるベルリン動物園のすぐそばにある"Hotel am Zoo"に宿を取りました。1920年代に立てられた古い建物ですが、現代アートで仕立てられた内装は、とても洒落た雰囲気です。
 堅牢な造りは、90年近い時代を経てもしっかりと仕事をしています。古いものを大切にし、それを新しい時代に合わせて活かし続ける。そんなドイツの国民性を感じさせてくれます。

 滞在期間中の朝食は、毎日ホテルのレストラン。普段は、コンビニのおにぎり程度で軽くすましている朝食もこの期間だけはフルコースでした。

 小さなレストランですが、テーブルには白いクロスがかけられ、落ち着いた雰囲気。食事の会話もみんな静かで、どこやらの温泉宿の朝食ビュッフェのような喧噪もありません。とてもゆったりと落ち着いた時間を過ごすことができました。

 レストランの中央部に置かれたテーブルには、何種類ものハムやパン、チーズが並べられています。どれも化学物質無添加のフレッシュなもので、美味しいものばかりです。レース前だというのについつい食べ過ぎてしまいました。

 パンはどれもずっしりとしたもの。「XXXソフト」というような、ふんわり系は一切ありません。噛むほどに味が出る。しかし、噛んでも噛んでもなかなか飲み込めないほどに密度の濃いものばかりです。パートナー女史は、「マラソンの筋肉痛はないけれど、あごが筋肉痛」と嘆くほどです。
 
 特に酸味のある黒パンは、ずっしりと鉛のように重い(笑)。それにレバーゲーゼ(レバーペースト)を付けて頂く。これはもう絶品でした。

 そんな朝食につい時間を忘れてしまいます。パンを何度もしっかりと噛んで食べる。噛むという時間がどうしても必要です。口に入れてふわっと溶けて直ぐのみ込めるような日本パンとはまったく違います。そんな時間が当たり前のように存在する。子供の頃から、そして、長い歴史の中でそんな時間がずっと流れている。それがドイツの時間のようです。

 レースの翌日、レンタカーを借りてドレスデンへ向かいました。行ってみたかった街のひとつです。第二次世界大戦中、連合軍の無差別爆撃にあい、街の80%が消失したといわれています。サグクセン王国の古都で、日本で云えば、京都や奈良のようなところ。バロック時代の豪華で荘厳な建物が建ち並ぶところでした。軍需施設はほとんどなく、歴史的建造物の建ち並ぶ街。終戦間近、この街だけは空襲にあうことはないだろうと、ドイツ各地から多くの難民がこの街に身を寄せていたそうです。そんな街が爆撃され、何万人もの命が奪われたそうです。

 エルベの川岸に建つ王宮や寺院、その大きさと芸術性の高さ。ひとつひとつの建物だけではなく、辺り一帯の街並みに時空を越えたモノや時間へのこだわりを感じます。

 そして、何よりも感動し、実感したのは、我々日本人とは違う歴史のとらえ方です。

 街の中心部に建つ「聖母教会」。荘厳な聖堂は、黒と淡いクリーム色の石のブロックで斑(まだら)に組み上げられています。黒い石のブロックをよく見ると、それは紛れもなく焼けこげたもの。そこに銃弾でえぐられたと思われるくぼみがいくつも見ることができます。
 聞くところによると、がれきの山となっていた教会からひとつひとつ石のブロックを拾い集め、それをもう一度昔の通りくみ上げ、足りないところを新しいもので埋める。そうして再建された建物だそうです。

 この「聖母教会」だけではなく、周辺にある多くの建造物がそのようにして建て直され、改修されてきたそうです。

 広島の原爆ドーム。破壊された当時の姿をそのまま後世に残し歴史の証人とする。一方、このドレスデンでは、破壊と再生をひとつの建物に封じ込め戦争の悲惨さを今に伝えています。それぞれの伝え方があります。

 ベルリンのホテル、ドレスデンの聖母教会。ドイツの時間は、どうも日本とは違った流れ方をしているようです。

2008年10月2日木曜日

ベルリンマラソン 完走記

 ハイレ・ゲブレシラシエが、2時間3分59秒の世界新記録を樹立したコースを一緒に(笑)走ってきました。

 9月28日、ベルリンマラソン。35回目の記念レース。4万人の人たちが、ベルリンの街の中を走る世界でも最大規模のレースのひとつです。

 スタート地点となったティアガルテン公園。号砲と共に一斉に黄色い風船。歓声が上がり、否が応でも興奮が高まります。4万人の大集団がゆっくりと動き出し、レースがスタートしました。

 気温は、10度を割っています。空気も適度に乾燥し、絶好のコンディションです。紅葉も始まっていて、日本でいうところの晩秋の気候でしょうか。夏の山練習、平日の皇居、自分なりの練習は積んできたつもりですが、それが活かせるかどうかは分かりません。ただベストを尽くすのみです。

 大勢のランナーの塊にのみ込まれながらスタート・ゲートをくぐったのがおよそ五分後、いよいよこれからが私にとってのレース本番。時計のスタート・スイッチを押して、気持ちを引き締めました。

 回りのランナーは、みんな図体がでかい!国内レースとはまったく違います。日本人はほとんどいないようで、ドイツ国内や北欧から沢山参加していました。そんなランナー達の合間をかいくぐって、自分のペースを作ることは容易ではありません。それでもなんとか、最初の5Kmは予定のタイムでこなすことができました。

 歴史的な街並みを走る。なかなか経験できることではありません。教会や宮殿などの建物だけではなく、普通に人が暮らす住宅もまた歴史を感じさせる落ち着いた造りをしています。聞くところによると築後100年以上も経った建物を改修して住み続けているところも多いとのこと。大きく育った木々と共に街にどっしりとした風格が感じられます。

 応援もすごかった。人々の歓声とドラム缶太鼓、和太鼓、ジャスの演奏、クラシック、イケイケ・レディやゲイのおねーさん(?)の踊りと歌・・・とにかくうるさいぐらいで気が散りました(笑)!
 
 30Kmまでは、そんなことを考えながら余裕のレース展開。ほぼ予定のタイムを刻んでいました。しかし、30Kmを過ぎた当たりで、右足ふくらはぎにいやな痛み。35Kmを過ぎる頃には、激痛となっていました。ちょうど歴史的建造物カイザーウイルヘルム教会の当たりでしょうか。同時に消耗も激しくなり足が前に出なくなりました。これはまずいと思いつつも、どうしようもありません。

 なんとか最後までは走り通しましたが、結果は不本意なものとなってしまいました。


距離  時間 ラップ
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5 km 0:23:36 0:23:36
10 km 0:47:05 0:23:29
15 km 1:10:27 0:23:22
20 km 1:33:54 0:23:27
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ハーフ 1:39:02
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25 km 1:57:42 0:23:48
30 km 2:21:48 0:24:06
35 km 2:46:49 0:25:01
40 km 3:18:59 0:32:10
ゴール 3:31:18 0:12:19
------------------------

 今回は、3時間20分を狙っていました。ご覧のように30Kmあたりまでは、ほぼ予定通りの走りでした。しかし、30Kmを過ぎた当たりで右足ふくらはぎの痛み。最初は我慢できたのですが、次第に激痛に変わり、同時に激しい消耗感。35Kmを過ぎた当たりからは、もうまったく走れなくなってしまいました。

 レース前の水曜日、最後の練習で皇居一周5Kmを20分52秒。今までのベストタイムを更新し、これはいけるかもしれないとの期待を持っていました。しかし、そのとき今回トラブルを引き起こしたふくらはぎに痛みを感じていました。「やっちゃった!」とは思ったのですが、しかたがありません。

 これだけが原因というわけではありませんが、改めてレースにベストを持ってくることの難しさを実感しました。

 しかし、何はともあれ、完走できたことは、何よりです。ここまで来て、棄権なんてもったいないですからね(笑)!


 そして、歴史の重みを感じる街並み。堪能できました。疲れ切った最後、前方にゴールのブランデンブルグ門が見える。ああ、やっとここまでたどり着いたか!これは、ちょっとした感動です。

 ゴールできた瞬間。よくやったよ!とガッツポーズ。結果はともかく、走り抜いた喜びがこみ上げてきました。

 42.195Km。一年前までは、こんな距離を走れるはずがないと思っていましたが、今では距離に驚くことはなくなりました。しかし、時間を狙うとなるとそう簡単なことではありません。体力だけではなく、知力、気力の総合力がなければ目標は達成できません。改めて、そのことを実感しました。

 楽しくもあり、厳しくもあった今回のレース。今後の課題が見えました。次の目標に向けて、また練習です。その繰り返ししかありません。この単純さが、ランニングの楽しみのひとつなのかもしれませんね。

 筋肉痛はほとんどありません。ただ、右ふくらはぎの痛みが治まりません。この痛みを治すことも考えなくてはなりません。練習と治療。うまく両立してゆくことも課題のひとつです。