2010年10月24日日曜日

過剰品質という本物

 長年愛用したファーバーカステルのボールペンを先日なくしてしまいました。もう、10年近くは使っているものでした。使い込んだ濃い焦げ茶色の木製の軸は、いい具合に膏がなじみ照りがでて、新品とはまた趣の違うものとなっていました。持った感じは、ずっしりと重いのですが、それがなかなか手になじんでいて、なめらかな書き味は、極みでした。

 そんなボールペンを、いつもゆく多摩湖の四阿のテーブルに置き忘れてしまったようです。気がついて戻ってはみたのですが、友人にもらったBMWのロゴマークが入ったロディアのメモパッド・ホルダーとともになくなっていました。
 
 自分の粗忽にただただあきれるばかりです。あのときにいろいろと考え、メモしたアイデアも一緒に消えてしまいました。どうぞ、私のボールペンを手に入れた方は、是非大切に命をつないでやってください。
 
 私は、それほどものに愛着がある方ではありません。しかし、あのボールペンのなめらかなペン芯の繰り出し、クリップのしっとりとした弾力、うまく配分された重量のバランスは、作り手の思い入れと丁寧な職人技と愛情を感じさせます。「本当によくやってくれました。ありがとう。」そんな感謝の気持ちさえ感じます。
 
 営業として現役だったころ、三洋電機をお客様として担当していたことがあります。そこで、空調機を作っていたのですが、その製造コスト削減策として、組み立て作業時間をどうすれば、削減できるだろうかという検討を行ったそうです。その中に、配線の取り回しをもっと簡単にすればいいのではという意見があったそうです。
 
 わたしも見せていただいたことがあるのですが、その配線の取り回しはみごとと言うしかありません。実に整然と機器内の構造物と一体化していました。職人技とでも言うべきですが、乱れのない、そして、撚りのない配線は、美しささえも感じるものでした。
 
 しかし、このような美しい配線は、ベテランでも手間のかかる作業だそうです。もっと簡素に作業を行えば、作業時間を短縮できます。配線ですから、機能に違いがあるわけではありません。過剰品質ではないか・・・ということで、そんな検討がされたそうです。
 
 しかし、結局、その作業に手をつけることはなかったそうです。詳しい事情はわかりませんが、それはもう理屈を越えた常識であり、そうでないこと自体を受け入れられない、理屈を越えた空気のようなものがあったのではないかと思っています。

 工場の方が、「そんな日常の当たり前が、私たちのモノ作りの基本にあるんですよ。品質は、そんな現場の当たり前の結果であり、必ずしも厳しく管理されてできるものではないんですよ」とおっしゃっていました。なるほどと感銘を受けたことを記憶しています。
 
 少々手前味噌ではありますが、私もまた、自分の資料作りに、私なりのこだわりがあります。その最大のポイントは、「一瞬のわかりやすさ」です。
 
 細々と理屈を積み重ねて説明しなければ、わかってもらえない内容を、どうすれば、一枚のチャートだけで、瞬時にわかってもらえるようにできるか。パワーポイント上に配置されるボックスの形や色、左右上下の位置関係、それぞれの内容に応じた色分け、空間の均整と間の取り方・・・そんなことを考えながらの資料づくりは、必ずしも生産性の高いものとは言えません。
 
 一度書き上げても、もう一度見直すと、何かしっくりこない・・・改めて、全体のバランスを考えながら、配置や形、色を調整します。
 
 「そんなことに時間を割くなんて馬鹿なことはやめるべきだ。もっと中身を考えることに時間を割くべきだ」と、人に言われることもあります。しかし、中身とは、表現と表裏一体な存在です。表現をわかりやすくしようとすると、中身というか、本質というか、それは何だろうかと考えなくてはなりません。
 
 どうすればわかりやすく、こちらの意図を伝えられるかを追求してゆくと、伝えたい内容の要素を徹底的に因数分解し、ロジカルシンキングで構造を組み立ててゆくことになります。
 
 一見複雑で、漠然としていることを、相手にわかりやすく伝えようとすると、その内容の本質を考え、それをバラバラにして、自分なりにわかりやすいように並べてみる。そして、これをどう並び替えれば、相手は理解できるだろうかと考えます。
  
 何色を使い、画面のどこに配置すれば、思考に無駄な雑音を発生させることなく、すっと相手に伝わるだろうかを考えるわけです。資料の順序も大切です。自分は分かっているからこの順序で大丈夫・・・ではなく、分かっていない人の思考プロセスを想像し、その順序を考えてゆく。そうすると、なるほど!と思える展開が見えてきたりもします。
 
 私は、表現を追求することは、中身を徹底的に理解しようとする取り組みだと思うのです。
 
 あのファーバーカステルのボールペンも、三洋電機のエアコンも、そのものが持つ本質を追究してゆくと、もはやこうせざるを得ないというカタチになってしまったのだと思います。それが一番いいコトかどうかはともかくとして、そうでなければ自分が、納得できないんです。それは、結果として、見た目にも美しいものに仕上がってしまうのです。
 
 効率は悪いかもしれません。自己満足かもしれません、過剰品質かもしれません。しかし、その追求をやめることは、もはや気持ちが悪いのです。
 
 さあ、今日もこれから、二つのプレゼンテーション資料を作らなければなりません。「さあみていろよ。なるほど!と、相手をうならせる資料を作ってやるぞ」と燃えています。しかし、その一方とで、「どれだけ時間がかかるだろうか?今日中に間に合うだろうか?」と不安がよぎります。
 
 仕方がありません。気持ち悪さを残したままのプレゼンテーションは、迫力もなく、後味の悪いものになることは、目に見えていますから。

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