トヨタ自動車の豊田社長が、議長の招請を受けて米国の公聴会に出席することが決まったようだが、この記事を見て、そういうことになるだろうとは、予想していた。
会社としての諸事情や駆け引きはあったのだろう。ただ、「公聴会に出席しない」という社長の記者会見の中で語られた「お客様第一」という言葉が、空疎に聞こえたのは、私だけではないだろう。
屋上屋を架すことは、私の本意ではないので、これ以上、申し上げるつもりはない。ただ、営業として、「お客様第一」、「お客様の立場に立って」という言葉の意味を改めて考えさせられた。今日は、この点について考えてみようと思う。
私は、中央線に乗って通勤しているが、遅れや運休は、日常茶飯事。そのたびに、車掌は、「申し訳ございません」と謝罪の言葉を述べている。
考えてみれば、彼の責任ではない。では、JRの責任かといえば、そうとも限らない場合が多い。先日も高円寺で起きた運休では、酔った若い女性が、線路に落ちたことが原因だと聞いている。それでも、車掌は、「申し訳ありません」と謝罪する。
人は、理屈だけでは動かない。遅れた、止まったことの理由の如何にかかわらず、人は苛立ち、不満や怒りがこみ上げてくる。この感情がある限り、人は、理性的な判断が、できない。だから、まず「申し訳ありません」という言葉で、相手の感情の高ぶりを抑えようと試みる。
システム・トラブルは、コンピューターの宿命だ。私が現役の一時期は、大型の汎用機が主流だった。汎用機はその名の通り、多くのユーザーが、同時にいろいろな業務で利用している。それが、トラブルを起こし、ダウンしようものなら、大変なことである。そんなことが起きたときには、とるものもとりあえず、まず頭を下げにゆくのが、営業の鉄則だと教えられていた。そこで駆け引きをすることは許されない。
こちらに非があろうがなかろうが、頭を下げにゆく。それでトラブルが解決するわけではなのだが、まずお客様に顔を出し、申し訳ないという気持ちを伝える。そして、お客様が、理性的な解釈や判断ができるようにすることが、営業の役割だと心得ていた。理屈はそれからである。
お客様第一、お客様の立場に立ってという言葉が、巷にあふれている。というか、実に軽々しく使われているように思う。
この言葉、決してお客様の言いなりに何でもするということでもなければ、こちらの理屈を押し通して、お客様に押し付けることでもない。
理屈だけではない、お客様の心の動きや、意思決定に至る葛藤、会社や家庭における彼の立場や期待。そういういろいろなものが、彼を動かしている。
そういうことを想像することが、お客様の立場に立つということなのだろうと思う。
思いやりや愛情も、同様である。相手のことを想い、いろいろと想像し、どうすれば相手が幸せになれるかを考え行動する。その想像力が足りなければ、相手は、あなたに愛情が薄いと不満を言うだろう。
これは職場でも同じことだが、相手の気持ちを想像できず、いや、想像することもせずに、自分の考えていることだけを話したり、相手の嫌がる質問をしたりする人間のことを「空気が読めない」というではないか。
まず頭を下げるというのは、決して「非を認める」ことではない。非を認めるかどうかは、理屈の結果である。ここは、徹底的に論理的に事実を追求し、責任の所在を明らかにしなければならない。そのことと、最初に頭を下げるということは、目的がまったく違うのである。
さて、豊田社長は、あるいは、彼の側近は、この違いを理解されていたのだろうか。
今回の出来事を他山の石としたいものである。
*- 追記: 2/21 読売新聞 「編集手帳」にこんな記述がありました -*
「人は、起こしたことで非難されるのではなく、起こしたことにどう対応したによって非難される」
■ お客様の立場をどうすれば想像できるのだろうか
お客様は他人である。そんな相手のことを想像しろといわれても限界がある。夫婦だって、実のところ相手の気持ちなどろくにわかってはない。所詮無理な話である。
しかし、それでも相手に信頼され、愛情を感じてもらうことができる。そこには、相手を理解しようという情熱があるからだろう。そして、相手が何を考え、どう考えて行動するかを想像する上でのパターンが読めるから、相手も安心してくれる。
ところで、営業という仕事の中で、お客様は、どのように考え、行動するのだろう。あなたには、そのパターンが読めますか。
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1 件のコメント:
2010/2/20の寄稿ですが、この一件の本質についての報道がされてからの寄稿が見当たりません。豊田社長は自分たちの作った物に絶対の自信を持っていた。お客様第一を誰よりも実践していたのは彼であり、トヨタという会社に関わっている人たちです。彼らの車作りは、一般の人どころか、同じ車業界の人からしても、「そこまでやるか!?」ということの固まりです。もちろん、人が作る物ですから、完璧な物はありません。それを彼らだけに求めるのはどこかおかしくないですか?米国系の会社で働いたことがある方ならお分かりと思いますが、「自分に非が無いのであれば絶対に謝るな!謝る必要は無い!」は米国ビジネスマンの常識ではないですか?
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